PRESIDENT 2015年7月13日号 掲載

文章を書いたり、話したりするのが苦手だ、という人は多い。その背景には、往々にして、書いたり話したりするには、それなりの「中身」があらかじめ頭の中になければならないという、極めて「まともな」思い込みがある。

私には、書くこと、話すことなんか何もない、だから、表現なんてできない、と言う人にしばしば出会うのである。

そんなとき、「脳は、書いたり話したりするまさにその際に、内容をでっち上げているんです」と言うと、「えっ!」と驚く人が多い。

実際、自分の中に、あらかじめ何か「書きたいこと」や「言いたいこと」があって、それが外に出るのが表現なのではない。表現とは、極端なことを言ったら、その場で「ゼロ」から生み出されるものである。

だから、書いてみないと、あるいは話してみないと、自分が何を書きたいのか、話したいのかわからない。表現とは、気づいていない未知の自分との出会いなのである。

人間の脳は「口から出まかせ」を言うことが、様々な実験からわかっている。英語では、confabulationという。

例えば、「チョイス・ブラインドネス」と呼ばれる現象がある。2つの顔写真を見せて、どちらに好意を持つか聞く。その後で、手品のトリックを用いて、選んでないほうを、「こちらの顔ですね」と示す。すると、被験者はしばしば、それが自分の選んだ顔ではないことに気づかない。

ここまでは、不注意ということで理解できるだろう。ところが、さらに「なぜこの顔を選びましたか?」と聞くと、「彼女の表情が好きだから」とか、「彼の意志は強そうだから」とか、もっともらしい理由を言ってしまう。自分が選んだ顔ではないはずなのに!

このように、様々な実験によって、脳から出る言葉は、しばしば「口から出まかせ」であるという「残念な真実」が明らかにされているのだ。

それならば、それを逆手にとって、いわば開き直って、「口から出まかせ」を、創造性の種にしてしまえばいいのではないか。

 

私は、大学の授業で、ときどき「口から出まかせ」の演習をすることがある。お互いに「お題」を出し合って、関連する自分の人生に関する「嘘」を即興で話させるのだ。

ある学生は、「ペットボトル」というお題をもらって、即座にこう話し始めた。「ぼくには1人、妹がいまして」。どうなるのかと聞いていると、彼は続けた。「彼女、ペットボトルが嫌いなんです」。

その理由は、不気味に光っているからだという。みんなが爆笑する中、妹がコンビニで可能な限りペットボトルを見ないようにして、缶入りの飲料ばかり買っていたという話を展開し、拍手のうちに語り終えた。

席に戻った彼に、「妹、いるのか?」と聞くと、「いません」との返事。「じゃあ、ペットボトルの件は……」「口から出まかせです」。

特に話がうまいわけでもない。普段から文章を書いているわけでもない。そんな学生でも、いきなり「無茶ぶり」されると、「口から出まかせ」ができる。

そして、面白いことに、「口から出まかせ」の表現でも、その人らしさは必ず出る。

脳は、「口から出まかせ」でいいと抑制を外したときに、奥底にある秘密を明かしてくれる。だからこそ、「口から出まかせ」は表現の有効な手段なのだ。