どうしたら「人目」から解放されるか 「相手の評価」を変えることなどできない
岸見 一郎
>>日経ビジネスバックナンバー 2014年6月24日(火)アドラーに学ぶ 人と人の間のこと
人目が気になったり、怖いと思ったりする人は多いでしょう。「人目なんて気にするな」といわれても、気にしないようにしようと意識することがかえってとらわれとなって、いよいよ人目が気になってしまいます。
人目というのは、いい換えれば「人が下す評価」でもあります。人からどう評価されるかということには、当然、よく評価されることも含まれるはずですが、私たちが気にしがちなのは「よく評価されないこと」についてです。今回は、この「人目」や「人の評価」をどう受け止めていくべきかを考えて行きたいと思います。
横断歩道を渡る時、車に乗っている人が自分をじろじろ見るのがいやだという人がいました。たしかに運転手が横断歩道を渡る歩行者を見ることはあるでしょうが、じろじろと見るわけではありません。信号が変わり車が交差点を渡りきった頃には、横断歩道を渡っていた人のことなどすっかり忘れているでしょう。
また、人前でうまく話せず、何を話すかを話の途中で失念してしまうというようなことは往々にしてあります。一方、他の人はあなたが思っているほどそのことを重大なことと思っているわけではありません。それなのに、口を開く度にどう思われるかを気にしていれば、相手のわずかな表情の変化も自分に向けられた敵意と見えてしまいます。
実際には、突然、話の流れを見失い、言葉が出なくなったとしても、ほとんどの人は待ってくれるでしょうし、決して笑ったりはしないでしょう。
■他者はそれほど注目していない
私たちは何らかの共同体に所属して生きています。しかし、だからといって、共同体の中心にいるわけではないのです。人目が気になる人は、自分が共同体の中心にいると思っているからこそ、人目が気になるのです。他方、自分が中心にいるわけではないと思っている人は、人目はそれほど気にならないはずです。
さらにいえば、他の人は自分の一挙手一投足にいつも注目していて、自分の容姿や失敗を笑うに違いないと思っている人は、アドラーの言葉を使えば、他の人のことを、「仲間」ではなく「敵」と見ているのです。他の人を自分を隙あらば陥れようとしていると思い、援助する用意があるとは思っていないのです。
まずは、相手を「敵」と見るのではなく、「仲間」として見てみることから始めてはいかがでしょうか。
■相手を避けたいための“思い込み”
冷静に考えてみれば、他の人がいつも自分のことを悪くいっているはずはありません。自分についてよくいっていることも当然ありえます。それなのに、他の人がいつも自分のことを悪くいっていると考える人は、その人自身が「悪くいっていると思いたい」ためなのかもしれません。
ある人から悪くいわれていると思えば、その人との関係に積極的でなくなります。避けたり、話しかけたりするのをやめるでしょう。このような場合、アドラーは、「相手が自分のことを悪くいうので、その人との関係を避けるようになった」というような「原因」よりも、「その人を避けたいから、相手が悪くいっていると思おうとする」という「目的」に注目します。
つまり、あなたの「目的」は、「相手との関わりを避けるため」。その目的を遂行するために相手が悪くいっていると思おうとしている、というわけです。今まで「原因」と思っていたことを、「目的」として考えることで、世界のとらえ方はがらりと変わるはずです。
■「人目」より大切なもの
仮に、本当に自分のことを悪くいっている人がいるとしましょう。しかし、そのことをあなたはどうすることもできません。あなたができるのは、あなたのことを悪くいう人とどう関わっていくかを決めることだけ。相手が下す評価は相手の「課題」であり、あなたの「課題」ではないのです。したがって、そのような人や、その人が下す評価をあなたが変えることはできません。自分ではどうすることもできないことをくよくよと思い煩っても仕方がないのです。
相手自身や相手が下す評価を変えようとするとどうなるでしょうか。あなたは相手が自分について期待するイメージに自分を合わせようとします。
そもそも他の人が自分について持っているイメージに合わせようとすることは大きな負担になります。しかも、この「他人が自分について持っているイメージ」というものさえ、あなたの想像に過ぎない、非常に不確かなものといえるでしょう。
あなたは他の人の期待を満たすために生きているわけではありません。ですから、他の人の目を気にして自分を実際以上によく見せることはありません。そのようなことをしなくても、今のあなたをありのままで受け止めてくれる人はいるはずです。
誰も自分に期待していないとまで思うことはありませんが、他者が自分をどう思うかということから自由になる必要があります。そのためには、現実のありのままの自分を見せなければならないのです。
今の自分とは違う自分になる努力が、他の人からの評価を怖れ、他の人に合わせるためのものであれば、たとえ努力して変わることができても、自分が自分ではなくなってしまうことになります。人に合わせない、あるいは人の期待に応えるような生き方をやめてみることだけでも、気持ちが随分と楽になるはずです。
他の人に評価されることを怖れる必要はないのです。相手の評価より大切なのは、自分が今やろうとしていること、やっていることに対して自分自身が「YES」といえるかどうかなのです。
生前はまったく評価されなかった芸術家はたくさんいます。しかし、それでも彼らが絵を描いたのは、他の人にどう評価されるかということを問題にしなかったからです。
■10人いればそのうち2人と仲良くできればそれでいい
オーストリアの詩人、リルケに自作の詩を送ったフランツ・カプスという若い詩人がいました。彼はリルケに自分の詩の批評を求めて手紙を書いたのですが、リルケはその申し出を断りました。批評を求めることなどは一切やめるようにと、リルケは返信の中で次のように書いています。
「あなたの夜の最も静かな時間に、自分は書かずにはいられないのか、とご自分にお尋ねなさい」(リルケ『若い詩人への手紙』佐藤晃一訳、角川書店)
当時、カプスは「自分の傾向とは正反対なものと感じられた職業の域をふみかけて」(前掲書)おり、自分は軍人ではなく詩人になるべきではないかと迷っていたのでした。「自分は書かずにはいられないのか」という問いに対して「書かずにはいられない」という返事ができるのであれば、生活をこの必然性にしたがって建てなさいというのがリルケの答でした。
書かずにはいられないと思えるのであれば、自分が書いたものが他の人からどう評価されるかは問題にならなくなるでしょうし、自分がどう生きていくかは、その答えから必然的に導き出されます。決して、他の人から指示されることではありませんし、他の人の期待に合わせるようなことではないのです。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体、誰が自分のために生きてくれるのだろうか」というユダヤ教の教えがあります。どんなことをしても自分のことをよく思わない人はいます。10人の人がいれば1人はあなたのことをよく思わないでしょう。10人のうち、7人はその時々で態度を変えるような人です。
一方、残りの2人くらいは何をしてもあなたを受け入れてくれる人になってくれるはずです。あなたはその「2人」と付き合っていけばよいのであって、残りの8人、とりわけ何をしてもよく思わない1人のことで心を煩わす必要はない。それより大切なのは、自分が自分のために自分の人生を生きることなのです。
人目や他の人からの評価を怖れないために必要なのは、他の人の人生ではなく、自分自身の人生を生きる勇気です。
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ちょっと面白いシリーズだったので、第2弾。
この答えはこれかなー。