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【第3回】「自分探し」をする前に「目の前のこと」をやれ!

ワークライフバランスは、強固な「ラポール」から

コラム第1回では、「自信をつけるのに、モチベーションは100%必要ない!」という話をした。

第2回では、困難なことでも「思考を『あたりまえ化』する4つのステップ」について触れた。

今回は「自分が何をしたいのかわからない」、だから「自分探し」の旅に出ている、という人に向けたメッセージを書きたいと思う。

近年、「ワークライフバランス」という言葉をよく耳にするようになった。
ワークライフバランスとは、仕事と生活との調和のことで、やりがいのある仕事と充実した私生活を両立させようという考え方だ。
しかし、ワークライフバランスという言葉が使われるようになってから、自分の余暇活動を充実させたい、「やりがい」や「働きがい」を求める人が増えているように感じる。
それは私だけだろうか。

もちろん、ワークライフバランスの考え方は間違っていない。
私自身も、毎年100回以上のセミナー、講演を実施し、コラム連載や取材対応をしながらも、できるかぎり子どもたちが寝る前に家へ戻るようにしているし、20年以上続けている、知的障がい者のボランティア活動には毎月欠かさず参加している。

充実した余暇をすごす人が増えるのはいいことだ。
仕事に「やりがい」を求めるべきだし、そのように工夫したらいい。
しかし、なによりもまず、ワークライフバランスを整えようという風潮には疑問を感じずにはいられない。

マズロー欲求段階説」の「自己実現」から満たそうとする人たち

アメリカの心理学者であるアブラハム・マズローは、「欲求段階説」の中で、人間の欲求を5段階のピラミッドに分類し、人は下の階層の欲求が満たされるとその上の欲求の充足を目指すと提唱した。
その欲求とは、下から順に、生理的欲求、安全欲求、社会的(親和)欲求、承認欲求、自己実現欲求だ。

下位の生理的欲求や安全欲求とは、人間が生存するために必要な衣食住に対する欲求である。
必要最低限の食事が与えられ、雨風を防げる住居で誰にも脅かされることなく安心して生活できれば、これらの欲求は満たされる。

もしも生理的欲求が満たされなければ、病気になるだけでなく、生命すら維持できないだろう。
また、暴力などで生存を脅かされたり、不安定な収入でその日暮らしをしていて安全の欲求が満たされなければ、いかに危険を回避するか、どうやって安定した暮らしを手に入れるか、ということに必死になる。

要するに、生理的欲求や安全欲求が満たされて初めて、上位の社会的(親和)欲求、承認欲求、自己実現の欲求を満たす余裕ができるのだ。
自分の生命すら危ういときに「自分はこうありたい」という意志を持つことは、普通の人には難しいだろう。
ピラミッドは、下から積み上げていかなければ完成しないからだ。

ところが、ワークバランスという言葉がもてはやされるようになったことで、多くの人が下位の欲求を完全に満たすことのないまま、上位の欲求を満たそうとしている気がする。

ワークライフバランスを整えたいという、いちばん上位の自己実現の欲求から満たそうとしているように感じるのだ。
多くのサラリーマンは、毎月会社から給料をもらっていることで、「自分は生理的欲求も安全の欲求も満たされている」と勘違いしているのではないか。

しかし会社からすると、目標予算を達成していないかぎり、安全の欲求を満たしていることにはならない。

しかも時代は変わり、年功序列制や終身雇用の保障もなくなった。
いま、受け取っている給料が3年後も5年後ももらえるかどうかはわからない。
客観的に考えれば、自分のやるべきことをやって会社の経営を安定させないかぎり、社員一人ひとりの安全の欲求も満たされないのだ。

そんな状態でワークライフバランスを求め、「やりたい仕事をやらせてほしい」「余暇活動を楽しむ時間が十分ほしい」と要求するのは、順序が違う。
まずは、目標を「あたりまえ」のように達成するのだ。
なにもかも、そこから始まると言っていい。

■夢をあきらめるのは、挫折ではない

夢を叶えたいというのも、「欲求段階説」の最上位の欲求の一つにほかならない。
自分の夢を持ち、それに向かって努力するのはすばらしいことだが、その前に下位の欲求を満たす必要があるのではないか。

以前、私にはどうしても叶えたい夢があった。
そして夢を語ると、多くの夢を持つ人との出会いがあった。朝まで飲んで語り合い、夢が実現したときのすばらしさを共有した。

しかし、なかなか私の夢は実現しなかった。
苦しい時期が何年も続いた。
私の周りにいる友人たちも同じだったと思う。夢を語る分だけ、愚痴も多くなり、世の中に対する不平・不満も募らせていった。
些細なことで苛立ち、同じように夢を持っているのにもかかわらず、子どもじみたケンカをした。
30歳をすぎても、「棘」ばかりが増え、自分を見失うことが多々あったようだ。

私はいろいろなものを犠牲にした。お金も、時間も、友人も、支えてくれた恩師さえも浪費した。
いまだからよくわかる。

下位の欲求が満たされないまま自分の夢を追い続けるのは、非常に難しいということを。

それができるのはごく一部の天才だけではないか、と。

自己実現欲求をあまりに求めすぎて、目の前の仕事に身が入らず、家族との関係も悪くし、体調もおかしくなって入院したりと……、心も体も、周囲からの視線さえも不健全になっていた私は、目指していた夢に近づくどころか、ドンドン怠惰になっていき、当然のことながら夢から遠ざかっていった。

あげくのはてに自己啓発セミナーの講師から、「あなたが本当にやりたいことをやりなさい。そうすれば夢は叶う」と言われ、その言葉を真に受けて実践したところ、多くの人から失望された。
取り返しがきかないほど信頼を失ってしまった。
あたりまえのことが、まるであたりまえのようにできなくなっていったからだ。

■いまの仕事ができることに感謝

私は以前、「夢」のない人生なんて意味がないと思い込んでいた。
私の周囲にもそういう人ばかりいた。

しかし、いまはこう考えている。

普通の仕事に就いて普通の生活ができること、衣食住が満たされて経済的にも健康的にも困らずに生きていけること、その生活に夢がないと言ったら、とんでもない話だ、と。

それに、現在その「あたりまえのように思える生活」が満たされていない人が大勢いる。

「夢のない人生なんて意味がない」などと言ってしまったら、その人たちに対して失礼だ。

その人たちにとっては、毎日きちんと食事ができて、健康にすごせるだけでものすごく夢のある生活だからだ。
よく「本当は○○になりたかったけれど、挫折してサラリーマンになった」という人がいるが、一般企業に入って一所懸命に仕事をし、家族との生活を守っているのなら、それはそれですばらしいことであり、決して挫折でも失敗体験でもない。消去法によって選択した生き方でもない。

もちろん、夢を持つことを否定しているわけではない。
夢を叶えたいという気持ちが原動力となって、目の前の仕事に一所懸命取り組める人もいるからだ。
過去の私のように大きな夢にだけ焦点を合わせ、脳に巨大な空白をつくっておきながら、その埋め方もわからないまま、人生をすごすことだけはしてほしくないということだ。

■目の前の仕事をやりきる「絶対達成マインド」

壮大な夢を持つのはいい。
だが、その夢を叶えるためにはどうしたらいいか具体的に考えられないまま、「いつか夢を叶えたい」と息巻いているだけでは夢には近づかない。

それならば、とりあえず目の前の仕事をやりきるという目標を持って、小さな空白をつくり、それを埋めていってはいかがだろうか。

空白を埋める回数が増えていけば、自信がつき、マインドが鍛えられていく。
そうして鍛えられた「絶対達成マインド」があれば、大きな空白も埋められるようになっていくはずだ。
そのほうが夢を叶えるにも近道なのだ。

それに目の前の仕事を一所懸命やり続けることにより、その仕事が好きになり、天職になるかもしれない。
それがやりたかった仕事かどうかなんて関係なく、人には自分が過去から現時点までやり続けたことを一貫して正当化したくなる「一貫性の法則」があるからだ。

もしも「ミュージシャンになりたい」という漠然とした夢を持っているなら、いつまでに、どんなミュージシャンになりたいのか、臨場感を持って具体的にイメージしてみればいい。
オリコンで何位以内に入れば満足するのか、どのくらいの人にコンサートにきてもらいたいのか、目指すミュージシャンの姿は人それぞれだから、自分の目指すミュージシャンの姿を明確にするのである。

■「山登りの人生」と「川下りの人生」

登山をするとき、いきなり山に登り始めることはない。
山について詳しく調べるのはもちろん、登山ルートや登頂予定日などの登山計画を立ててから登山を開始する。
登頂に成功するためには登山計画をつくることが必須なのだ。
夢を実現させるときも同じだ。
実現すべき夢がよくわからないまま闇雲に突き進んでも、夢は叶えられない。
夢を実現させたいなら、できるだけ具体的な計画を立てるべきだ。

そうして夢を叶えるための計画が立てられたら、頂上に向かって一歩一歩前進していく。自分のあるべき姿に近づいていることを実感しながら山を登り続ければ、充実した毎日をすごせる。

困難を乗り越えて登頂したときには、これ以上ない達成感を得られるはずだ。それはそれでとてもすばらしい人生と言えよう。

しかし、そうした夢を持っている人はどのくらいいるのか。
世の中には「夢があるのが当たり前」「夢を持たずに生きるなんてありえない」という風潮があるが、本当に叶えたい夢を持っているのは一部の人だ。
自分が本当に何をやりたいのか、自分の夢は何なのかよくわからなくて悩んだり、迷ったりしている人のほうが多いはずである。

■夢がないからと、自分を責める必要はまったくない

しかし、夢を持っていないことで、「どうして夢くらい持てないのだろう」「夢がないなんてダメな人間だ」などと自己否定する必要はまったくない。

なぜなら、山登りだけが人生ではないからだ。
自分のあるべき姿を見つめ、それに一歩一歩近づいていく山登りの人生も素敵だが、どこに向かって進むのかわからないけれど、目の前のことを一所懸命にやって乗り越えていく「川下りの人生」もすばらしい生き方ではないかと私は思っている。

私は山登りの経験も豊かにあるが、青年海外協力隊コスタリカにいたときにやったラフティングも刺激的な体験だった。
舟で激流を下っていくと、目の前に巨大な岩が立ちふさがったり、対流で渦を巻いていたり、小さな滝になっていたりする。それに巻き込まれないように一所懸命漕いで避けて通ったり、乗り越えたり、飛び越えたりしていくわけだ。

もちろん、流されてはいけない。
自分でコントロールできなければ、いずれ岩にぶち当たったり、渦に巻き込まれたりして溺れてしまう。
しかし自分で舟をあやつり、目の前に現れた障害物を乗り越えたときは最高の気分が味わえる。

このコラムを読んでいる人の中にも、将来どんな会社に就職したいのか、どんな職業に就きたいのか、どのように大成したいのか、自分が何をしたいのか、わからなくて悩んでいる人もいるだろう。

だが、わからないまま就職しようが、進学しようが、いまの職場で働き続けようが一向にかまわない。

■やりきった「自信」が、思考をさらに「あたりまえ化」する

どんな道に進むにせよ、目の前の仕事や勉強に真剣に取り組み、やりきればいい。
目標を達成させればいいのだ。目の前にやるべきことがある。それをやるのだ。
そうして目の前の目標を一つひとつ達成していくことで、間違いなく「自信」が芽生えていく。

第1回のコラムで書いた「逆算思考」で考えよう。

自信がつくから結果が出るのではなく、結果を出すから自信が芽生えていく、のだと。

目の前にやるべきことがある。会社から与えられた目標があるのなら、まずはそれを「絶対達成」させる。
どんな目標であろうが、それを達成させるのは「あたりまえ」だという思考を手に入れるのだ。
そうすることで「マインドチャージ」され、たとえ現時点で「自分のやりたいこと」が見つからなくても、いずれ夢が見つかったときに、培ってきた「自信」が必ずや成功への階段へと導いてくれるだろう。

だから、大きな夢があっても、まったく夢がなくても、どちらでもいい。
目の前にやるべきことがあるなら、それは後回しにせずやるのだ。やりきるのだ。

拙著新刊『絶対達成マインドのつくり方』には、どのようにすれば目標達成を「あたりまえ」にできるのか。その手順をNLP理論の「学習の4段階」をもとに解説している。ぜひ参考にしてほしい。