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「自分にはできる」と思う心が挑戦を生む

全盲の僕が弁護士になった理由』著者の大胡田誠さんと『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(通称『ビリギャル』)著者の坪田信貴さん。話題の本の著者2人の対談は「常識」「当たり前」の食い違いが引き起こす摩擦、そして「できる」と信じて挑戦することの意義などに及んだ。若手社員の指導に悩むビジネスパーソンなどにも参考になるヒントが多い(前回の記事はこちらをご覧ください)。

企業などでよく聞くのは、いわゆる“ゆとり世代”の若者への戸惑いです。感覚が違いすぎる、コミュニケーションが成立しないと苛立つ上司も多くいると思いますが、世代を超えて、一緒に前を向いて進んで行くにはどうすれば良いのでしょうか。

大胡田:以前、ある医師が「心はどこに存在するのか」という問いに対して、「人と人との間にある」と答えるのを聞いたことがあります。人が「心」と感じるものは体の中にあるのではなく、誰かのことを思ったときに、その人との間に生じる感覚だというのです。すごく含蓄が深い言葉だと思いました。

 会社の中でも、世代、環境などの相違から、「自分とは違う」と感じる部下や上司に対して、「わからない」「理解できない」と突き放してしまう場面が多々見受けられます。そうではなく、まずは相手に関心を持ち、相手のことを思ってみる。そうすることで「心」が生まれて、両者を隔てていた壁が取り払われるのではないかと感じます。

坪田:本当にそうですよね。

 「ビリギャル」のさやかちゃんも、うちの塾に来た時には「ギャル」そのものでビックリしました。髪は鮮やかな金色。巻きすぎてスプリングみたいだったし、つけまつ毛はひじきみたいだった。塾には勉強が苦手な子はいくらでもいます。けれど基本的にヤンキーとギャルは来ません。もしかしたら、中には「とても受け入れられない」と思う先生もいるかもしれないけれど、僕はこんな派手なギャルが受験するというのが単純に「面白い」と思いました。

面白いと思うのがファーストステップ

大胡田:それだ。「面白い」と思えるというのがファーストステップですよね。自分とは違う存在が目の前に現れた時に「オレとは違う」とか「なるべくかかわらないようにしよう」ではなく「面白い」と思えるっていうのが大事な気がします。

坪田:失礼なことなのかもしれないけれど、僕は障がいを持つ人にも「どんな感覚なんだろう」って近づいて行っちゃう方です。今思えば、小学校の時もいわゆる特殊学級の子たちとすごく仲が良かった。「優しくしてあげたい」というのとはちょっと違う。いろんな人、多様な人と仲良くなりたいという気持ちですね。

大胡田:坪田さんには多様性を受け入れる自由さ、度量の大きさのようなものを感じます。何か特別なバックグラウンドがあるのでしょうか。

坪田:僕、実家がお寺なんです。お寺には色々な人が来ます。地域のコミュニティスペースですから。本堂には誰が入って来てもいい。追い出すことはできません。時にはそこで寝泊まりする人もいます。だから小さい頃から色々な人と接してきたというところはあります。

大胡田:なるほど。そういうバックグラウンドがあるのですね。僕も、自分自身に障がいがありますから、五体満足で健康な人ばかりではない、障がいがあったり病気を持っていたり、色々な人がいる社会が当然だという意識が自分の中にあります。それは自分にとって大きな財産だと思いますね。

坪田:大学時代、強く印象に残った授業があります。「ハンディキャップとは何か」というテーマの授業です。

 先生が、「この中で、自分にはハンディキャップがあると思う人は手を挙げて」と言いました。見渡すと、車いすに座っている生徒が1人手を挙げていました。

 ところが、先生は「私が見るところ、この中の8割はハンディキャップトだ」と言うんです。メガネやコンタクトで視力矯正をしている人は、それがなければ日常生活に支障が出るのだからハンディキャップトだろうと。確かにその通り。僕は両目とも視力が0.1ですから、メガネがなかったらメチャメチャ不便。これは明らかにハンディキャップです。

 こういう視点を得ると、自分が当たり前ととらえていることが設定から違うのかもしれないと気付かされます。

 例えば、今、僕らが見えている世界は本当にこういう色なのか。よく、犬はモノクロでしか見えないと言いますよね。僕らはカラーで自然のままに見えているように思っているけれど、もし、僕らよりも高次で素粒子レベルまで見える存在がいたら、実は世の中のものはすべてグラデーションに彩られているのかもしれません。今、僕らが見ているのは、かりそめの像なのかもしれない。

「常識」「当たり前」の食い違いが摩擦を起こす

大胡田:自分たちが常識と思っていることが、実はそうではないかもしれないということですね。

そういう「常識」や「当たり前」の食い違いは、日常的にビジネス現場でも摩擦を引き起こす要因になりがちですね。

坪田:そう。会社でよくあるのが「コピー取ってこい」という指示。部下が取ってくると、「どうしてカラーでコピー取るんだ。余計な経費がかかるだろう」とか、「3人いるんだから3部取らなくちゃダメだ」とか、「左上にホチキス止めしてこい」とか怒られる。いったい、「コピー取ってこい」という指示に、どれだけの内容を込めているのかという話です。

 自分と相手では、「当たり前」の感覚が違うかもしれないのだから、しっかり定義付けをしないと。

 例えば、うちの塾では事務員や教師に「大きな声で挨拶しましょう」という指示を出していますが、その「大きな声」とは「3m離れて騒音計で測って80デシベル以上の声」と定義づけています。こうすれば、主観が挟まる余地はありません。65デシベルだったら15デシベル足りないとわかります。

坪田:指示を浸透させて、スムーズに仕事を進めるためには、客観的な解釈のずれをなくさなくてはいけないのです。

大胡田:すごい。そこまで徹底しているのですね。

 僕が新人研修などでよく出す問題があります。「『ペットボトルに入っている水を飲む』ことを人に指示してください」という内容です。

 これには、多くの人が戸惑いを見せます。「ペットボトルの水を飲んでください」と言う以外に何と指示するのかというわけです。

 僕だったらこう説明します。

「半透明の容器に液体が入っていることを確認してください。容器に対してあなたの利き手ではない方の手を差し出してください。高さの中間地点を順手でつかんでください。胸元まで引き寄せてください。あなたの利き手を半透明の容器の最上部まで持ってきてください。そこにふたがあります。そのふたを分離することを目的に反時計回りに360度以上回転し続けてください……」。

 ここまで行動を細かく分析して伝えれば、誰でも間違いなくできるようになります。

 「ペットボトル」という言葉自体を知らない人は、いきなり「ペットボトルの水を飲んで」と言われても困ってしまいます。ボトルを持つ時にふたの部分をつかんでしまったら、ふたを取りにくくなります。順手でなく逆手で引き寄せたらふたが下に向いてしまいます。

 できる人にとっては当たり前の手順を細かく細かく伝えることに指示の本質がある。

 これもよく講演などでやるのですが、「四角形の上に三角形を書いてください」という指示を出すと、いろいろな描き方をする人がいます。四角形の内部に三角形を描く人、家のように四角形の上に三角形を描く人、少し離れたところに四角形と三角形を描く人、立方体と三角錐を描く人……。インプットは同じでも、アウトプットは多種多様です。

 シニフィアン(文字情報)とシニフィエ(そこから浮かぶ映像)が違うからアウトプットも違う。指示を出す方は、そういうことも意識しておかないと。

自分の「常識」「当たり前」の価値観だけで判断すると、勝手に限界を感じて歩みを止めてしまうこともありそうです。

大胡田:確かにあるでしょうね。例えば、僕のように全盲の人が「弁護士になりたい」と言った時には、多くの人が「そんなの無理だ」と思いそうです。でも、そうやって「無理」と決めつけて努力をしなければ、絶対に弁護士にはなれません。「できる」「やれる」と思えるかどうかは、人生を分ける大きなポイントだと思います。

「できる」と思えるかどうか人生を分ける

坪田:「コロンブスの卵」の逸話は有名ですね。コロンブスが卵の先を割って机に立てたという話です。

 でも、実は卵って、割らなくても立つんですよ。そう生徒たちに教えると、みんな頑張って微調整しながら立てようとします。3分ぐらい続けていると本当に立てることができて、みんな感動します。

 実は、ここには重要なポイントがあるんです。「立つかどうかがわからなかったら、立たせることはできない」ということです。「できっこない」と思っていると、10回、20回と失敗した時点で止めてしまう。3分間って、相当長くて、かなり微調整をし続けなくてはなりません。それ続けるのはなぜかと言えば、「立つと知っているから」。

大胡田:確かに「知っている」って重要ですね。

大胡田さんは全盲で弁護士に挑戦しましたが、どうして「自分ならできる」と知っていたのでしょう。

大胡田:僕の場合は先輩がいたことが大きいですね。日本で初めて点字を使って弁護士になったという方がいて。今のボスなのですが。その人の本を読んで、自分が「できない」「限界」と思っていた先に、本当は可能性がいっぱいあることを知ったのです。彼ができたなら僕もできるはずだという気持ちですよね。

「自分ならできる」と思えた自己肯定感は、どこから生まれたのでしょう。

大胡田:教育もあるかもしれません。小さい頃から目が見えなくても母親にアイロン掛けとかリンゴの皮むきとかをやらされていましたし、山登りが好きだった父親に険しい山にもどんどん連れて行かれたんです。

 そういう経験をしていると、自分でやれることはいろいろあるということを実感できます。周りは無理と言うかもしれないけれど、「なんとかなるだろう」「自分にはできるに違いない」という根拠のない自信が芽生えるようになりました。

坪田:僕は昨年、「情熱大陸」というテレビ番組に出させていただいたのですが、それを見た教え子のうちの何人もが「僕も将来、情熱大陸に出たいです」「情熱大陸に出るという夢ができました」と言ってきたんです。情熱大陸の出演者は年間50人ほどですから、相当高い倍率ですが、身近な人がやると「オレもやりたい」「できるかも」と思うのかもしれません。先輩がいたから「できる」と知っていたというのと似ていますね。

 いいですね、この発想でいけば、人生、誰かができたことは必ず自分もできることになる。

「大人って楽しいぞ」と伝えたい

大胡田ノーベル賞も取れるかもしれない(笑)。

 「できない理由」を探せば必ず見つかるものです。けれど、「できる方法」も探せば絶対に見つかるのです。挑戦することは大変なことばかりではなく、人生を楽しくしてくれるものです。「安定志向」「保守的」「内向き」などと評価されがちな若者に、そういう姿勢を見せることができればうれしいですね。

 きっと坪田さんも日々楽しそうに生きているから、生徒たちも「勉強して大学に行ったら楽しそうだな」というポジティブなメッセージを受け取っているんじゃないかな。

坪田:その考え、メチャクチャ共感します。僕は毎年、卒塾式で生徒たちに必ず話すことがあるんです。それは「いかに自分の人生は楽しいか」ということ。

 小学生のころ、「ビックリマンチョコ」がほしくてもお母さんには買ってもらえなかったけど、大人になって自分でお金を稼ぐようになったら箱買いできるぞとか、きれいなお姉ちゃんを助手席に乗せてドライブデートもできるぞとか……。

 「人生は甘いものじゃない」とか「大人は大変なんだ」ということばかり言いたがる大人が多いけれど、それでは若者はみんな社会に出たくなくなるでしょう。

大胡田:なくなる、なくなる!

坪田:僕は生徒たちには勉強を頑張って大学に入って、仕事も一生懸命やったら、こんなに楽しい人生が待っているぞということを伝えたい。大胡田さんが同じ発想ですごく嬉しいですね。

大胡田:実際のところ、坪田さんは今、楽しいですか?

坪田:メチャクチャ楽しい。ずっと前から楽しいです。

大胡田:僕も本当に「大人になって良かった」と思いますね。大学に行って、資格を取って自由になれたという感覚があります。

 事件が一段落して依頼者から「先生みたいに障がいを持ちながら頑張っている人に出会えて勇気がわきました」と言ってもらえると、自分の障がいまで肯定された充実感がありますね。仕事を離れて家で子供と戯れているのも楽しい。

 子供の頃はやはり目が悪くてなんとなく「劣った存在」のように感じることもありました。今は、「視覚障がい」うんぬんではなく、1人の大胡田として社会に向き合うことができていると感じます。

坪田:なるほどね。いやあ、大胡田さん、明るくて素敵な方で今日お会いしただけで大ファンになってしまいました。

大胡田:僕の方こそです。今日は本当にありがとうございました。