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ピンチでもうろたえない「メンタル鍛錬法」 困ったときに心が戻れる“基地”を持とう

PRESIDENT 2011年5月30日号
心の平穏を願うのは、何も現代社会の疲れた住人だけではない。古今東西で、多くの試行錯誤がなされてきた。

その中でも、時代を超えて受け継がれてきた手法にはそれ相応の理由があるはず。今回は坐禅、ヨガ、呼吸法の使い手にその手法をご教示いただいた。

土曜の昼、横浜市某所で週1回開かれる臨済宗老師・井上暉堂氏の坐禅会を訪れた。臨済宗では、師匠が与えた公案という逆説に満ちた“口頭試験問題”を、坐禅を組んで全身全霊で考え抜く。通常は1クール約40分だ。

「坐禅は仏教の13宗56派の基本中の基本の形。自分の目標とするものに向かっていくためのケース・メソッドです」と井上氏。メンバーの1人である古書店経営者にその効能を聞くと、「坐禅を始めて約1年経ちます。空手をやっていますが、腹を据えることや冷静な判断力は、後から始めた坐禅から得たと思います」。

あがり症を克服したという広告代理店勤務の男性も言う。

「プレゼンの前などは、坐禅で体得した腹式呼吸をすると“ハラ”ができてくるし、心が整います。立ったまま行う“立禅”を10年やってますが、始めてから2〜3年経ったある日、『あれ? 以前の僕とちょっと違うぞ』と自覚でき、自信がつきました。昔の同僚にも『落ち着いたね』と言われました」

井上氏は、「幸福の泉はどこから湧いて出るのか」と皆に問うた。

「人間には苦悩や災難が次から次へと押し寄せる。それらを克服するには、自己を空っぽにし、苦悩や災難に飛び込んで自己と“同一化”するんです」

これが三昧(ざんまい)と呼ばれる仏教の根源であり、真の幸福の泉もここにあるという。三昧に入るための精神統一の力を禅定力(ぜんじょうりょく)と呼ぶが、坐禅は禅定力を強化するための基本的なメソッドだ。苦悩や災難との“同一化”なる論理は難解だが、禅は実践の哲学であり、言葉や論理に縛られることを嫌う。言葉や論理から頭を解放するために、あえて公案という逆説を考え抜くのだ。

■自己を空っぽにし、“災難”に飛び込む

「例えば難しい仕事や、大震災のような恐ろしい対象と“1つになる”のは容易ではない。しかし、三昧に入るためには、苦しくとも逃げずに仕事や災厄とひたひたと同化し、自己を忘却することです。台風を恐れず、飛び込んでその目に至る、といえばわかりやすいでしょう。災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。己が対象に“なり潰れた”とき、そこに災難はないんです」

これを、「なまじ傍から眺めているから迷うし、怖い。理屈をこねるな、身を捨てて飛び込め!」と言い換えれば、実践哲学の匂いがしてこよう。

続いて訪れたのは、東京・荻窪のヨガ教室である。

「ヨガは前屈、後屈、捻るの3パターンを組み合わせて背骨を刺激し、身体を本来あるべき形に整えていきます。身体を動かしつつ呼吸することで心身のエネルギーが活性化し、行き詰まっていたものがふわっと開くような感覚が味わえますよ」。そう語るのは、IYCインターナショナルヨガセンターを主宰するケン・ハラクマ氏。

「身体の状態と人の精神的な部分は、思った以上に結びついています。例えば、自信がない人は肩が前つぼみだったり、声がボソボソと小さかったりする。それが、胸を開くポーズをとりながら呼吸するうちに血流やエネルギーの通りがよくなって気持ちがすっきりしたり、咽喉の部分を開くポーズをとることで声が大きくなり、自分に自信を持てるようになったりします」

ヨガの片足立ちのポーズも、心身の結びつきを物語る好例だ。

「振れ幅の差こそあれ、均衡がとれても身体は常に動いている。その状態を察知して、一方にゆきすぎないようにするのがバランス感覚です。お金の使い方や他人とのコミュニケーションといった生活の中で働くバランス感覚は、実はこれと同じ。片足立ちの練習を通じてその感覚を会得できる」

しかしヨガの目的は、複雑なポーズができるように努力することではない。

「にもかかわらず、特に男性はしばしばヨガを修行として扱い、ポーズじたいが目的化してしまいがちです」

男性は、今の社会で「今のままの自分でいい」と認めてもらえる場が少ないのでは、とケン氏は指摘する。

「これでは、できないポーズがあることじたいストレスになる。できようができまいが、今の自分の存在を認めてくれるヨガ教室があれば、大きな安心感につながります。ヨガを心身のメンテナンスを通じて人生を生きやすくするためのツールと捉え、その人の生活パターンに合った活用法を考えればいい。できない自分を許し認める心情と、『できるといいよね』という心情の、矛盾する2つを併せ持つことが大事です」――これは、どの局面においても望ましい、ゆとりある心の持ちようだ。

■「他者」ではなく天や大地を意識する

ここまで見てきた坐禅やヨガは、いずれもその根幹に「呼吸」を置いている。呼吸法について30年以上研究を続けている明治大学教授の齋藤孝氏は、「息を調(ととの)えて、心を調える。呼吸は自分自身と付き合っていく最大の“道”。世界と自分をつなぐ道であり、他者と自分の息を合わせるという意味での道でもあります」という。

眼前にいる“他者”を意識すると、人はしばしば考えすぎたり気が滅入ったりする。そのため、人は古代から世界や宇宙、大地、天、あるいは神といったやや離れたものを意識することで、こうしたストレスを解消してきた。


一神教的な神が馴染まない日本人には、呼吸がそういう大きな何かとつながっている実感をもたらしてくれます。呼吸を調えて、目の前の雑事から距離を置くわけです」

孤独に浸るのではなく、もっと大きな存在とつながっている、長い長いタイムスパンの中に自分という存在がいる、という感じを掴む。そのためにはまず呼吸を通じて身体に働きかける。すると身体の状態が変わり、次に心の状態が変わる……という手順を踏む。

「心から心に働きかけるのが必ずしも効果的ではないんです。心じたいが落ち込んでいるときに『しっかりしろ』と言っても立ち直るのは難しい。例えば温泉に入ると自然と身も心もほぐれるように、身体を1つ経由してから心に働きかける手法がむしろメンタルケアの王道。しかも常に携帯できて身体に働きかける技となると、温泉やお酒よりもやはり呼吸が一番身近なんです」

齋藤氏の呼吸法には2つのパートがある。まず肩甲骨を上下させたり、ハッハッと息を吐きながら軽くジャンプしたりして、赤ん坊のように自然に息ができる上半身をつくる。これはいわば準備運動だ。次が丹田(たんでん)呼吸法。鼻から3秒息を吸って、2秒お腹の中にぐっとためて、15秒かけて口から細く吐きながら、臍下(せいか)丹田――ヘソの下――を充実させていく。この2つを、場に合わせて組み合わせながら使うという。

「昔の日本人は、臍下丹田や肚といった心身の“中心感覚”をごく普通に自覚していましたが、今は違う。この2つを身につけるということは、困ったときにいつでも心が帰れる場所、外界と距離を置き、呼吸を調えて心をメンテナンスする場所があるということです」

呼吸法は、こうした外界・他者と自分とをつなぐ際の“調節弁”だと齋藤氏は言う。心の問題を心だけで解決するのではなく、呼吸を介し身体を通じてケアするこれらの手法。試してみる価値はありそうだ。