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武器としての日本刀・本来の美、その先に高みがあった

現代を代表する日本刀の名匠・河内國平。約40年の研究と経験をもとに、鎌倉時代の古刀に多く見られる「乱れ映り」と呼ばれる地紋を再現した。その成果で2014年に刀剣界の最高賞と言われる「正宗賞」を受賞。数百年ぶりに鎌倉時代の名刀の景色が姿を現したと関係者に衝撃を与えた。
 「武器としての刀」が備える機能美、その象徴が乱れ映りだった。華麗な刃文が日本刀の美の一つの条件という従来の常識から抜け出し、日本刀本来の武器としての機能を第1として追求する、伝統の技法を極めた先の発想の転換によって、名匠は新境地を得た。

鎌倉時代の技、数百年の時を経て再現

「鉈(なた)でも、包丁でも、刃こぼれするようだったら誰も買ってくれないでしょう。それと同じで、日本刀も当然使える刀を作らなければだめなんです」

 奈良県東吉野村にある鍛冶場で刀匠の河内國平は、実戦で使う道具だった時代の日本刀について話し始めた。現在、73歳。現代を代表する刀匠の1人だ。

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大学卒業後に入門した宮入昭平(のちに行平に改名)と、その宮入から独立した後、再入門した隅谷正峯の2人の師を持つ。いずれも、人間国宝の指定を受けた名匠だ。河内自身も、日本美術刀剣保存協会で「新作名刀展無鑑査」という、現代刀匠として最上位の評価を得る名匠である。

 河内は、2014年に「正宗賞」を受賞した。「該当なし」で空席が続いていた太刀・刀の部門でこの賞が出されたのは、18年ぶりのことだった。(短刀の部では宮入法廣が2010年に受賞している)

 受賞の大きな理由は、鎌倉時代を中心とする古刀に多く見られる「乱れ映り」を再現したことである。乱れ映りは、刀身の地肌部に現れる暗帯の地紋のことだ(映りについては、上掲の動画を参照)。

 刀剣は、武家社会の成立によって刀の需要が急増した鎌倉時代が作刀技術の一つの頂点である。この時代は、後世に名を残す名工たちを数多く輩出した。

 例えば、相州伝と呼ばれる代表的な作刀技法を確立した「正宗」は、その1人である。同じく代表的技法である備前伝の流派「一文字」や「長船」などの一派もこの時代に活躍した。いずれも、その高い評価で現代刀匠の目標として存在し続けている。河内も「鎌倉時代中期頃が、地鉄(じがね)も刃文も一番いい」と評価する。

 だが、江戸時代以降、この鎌倉時代の乱れ映りを持つ刀は姿を消した。その後、多くの名匠がこの乱れ映りの再現に挑んできたものの、「それらしいものがある」という刀は現れても、はっきりと再現したと多くの関係者が認める例はなかったのだという。

 

河内が再現した映りは、備前伝によるものだ。正宗賞の受賞刀の解説文では、

「均整のとれた力強い太刀姿や、現代丁子とは明らかに異なる焼刃の古色さもさることながら、その映りである。備前伝を手掛ける多くの刀匠にとっては刃文と共に地鉄、ひいては乱れ映りの再現が長年の課題であったが、本作では随所に現れた地斑状の暗帯部によって乱れ映りが明瞭に形成され、古作に近い雰囲気を湛えるのに見事成功している。このことから映りの解明に向けて大きく前進したことは間違いなく、一つの到達点に達したと言え、革新的な功績として今回の受賞は称えられるべきである」(『刀剣美術』、平成26年6月号より)

と、高い評価を受けた。約40年のたゆまぬ研究の末に数百年前の技の再現にたどり着いた。

 偶然の産物として、ひと振(ふり)だけの限定で作刀できたわけではない。映りが出るメカニズムを解明した結果、100%の再現が可能になったという。実際、再現技法を教えた河内の弟子2人も、同じように映りを持つ刀を作ることに成功して翌年には2人とも特賞を受賞している。

 

武器としての「使える刀」、発想の転換が映りを生んだ

「昔の備前物の刀には映りがあるからね。下手な鍛冶屋でも、上手な鍛冶屋でも、みんな映りが出ている。『こういう手法で焼きを入れると使える刀ができる』と、親方から代々学んでやっていたのでしょう」

 河内が話す「使える刀」という言葉には、映りの再現に至る発想の転換が隠れている。

 1600年に関ヶ原の戦いが終結すると、世は泰平へと向かっていった。およそこの時期を境に刀に対するニーズが大きく変わった。日本刀を武器として使う機会がめっきりと減ってきて、美術品としての位置付けが高まったのである。江戸中期には華麗な刃文を持つ精緻な日本刀が現れ、日本刀はますます華美さを増していく。

 「そのような時代には、刀を腰に差しているけれども一生使わなかった武士が多くいたでしょう」と、河内は見る。

 一方、鎌倉時代に尊ばれた刀は本来の武器として「使える刀」であり、実戦用に役立つ機能性の高さが売れる条件だったのではないか。当時は、そのための技法を親方から弟子に代々伝えていたはず。つまり、映りは刃文のように意図的につけた変化ではなく、「使える刀」としての機能を突き詰めた結果、刀身に現れる。これが、河内の見立てである。

 映りを再現した刀は、一般的な作刀法のものと比べて地鉄がかなり柔らかくなるのだという。「だから、まず折れない。江戸時代の刀は折れやすいかもしれません。室町時代までの刀との大きな違いは地鉄の柔らかさ」と河内は言う。

 日本刀の芯には炭素含有量が少なく柔らかい地鉄が使われる。刃の部分は固く粘りのあるものを用い、その硬軟の組み合わせが世界に類を見ない日本刀の強靭さを生み出す。これが「折れず曲がらずよく切れる」という日本刀の特徴を生み出しているとの見方が一般的である。

 しかし、映りを再現した刀は、この常識から離れることで生まれた。刀で当たり前の芯鉄(しんがね)は単なる増量材でしょうと河内は言う。映りを再現した刀は、河内がこれまで作ってきた刀より地鉄に柔らかさを備えているというのだ。

 もちろん、刀が現役の武器だった時代とは異なり、今は人を斬る道具としての切れ味や、江戸時代以降の刀が本当に折れやすいかどうかを本当に試すことはできない。それでも、40年にわたって映りのことを考え続けてきた現代の名匠は、この柔らかさが「折れず曲がらず」という「使える刀」の条件だったのだろうと考える。刀が実戦の武器として存在していた時代には、それを使う者にとって刀は日常生活の雑器だった。

「今残っている名刀では刃文が華美なものが多い。そういう刀は、お宝として置いておこうというもので実際には使わなかったのではないでしょうか。焼きの高い刃文のものは折れる可能性があるから使わなかったのかもしれません」

 刀を使わない時代になって刃文の美しさが尊ばれるようになり、刀工の技法としては刃文を自由に制御する術が重要視されるようになった。幕末の戦乱で古刀を尊ぶ復古主義を唱える声が高まったものの、失われていた古作の製作方法には戻れなかったと河内は分析する。

 「私たちが習った技法も、江戸時代の製作方法でしょう」と。

絶えず考えていたら逃さない、科学者さながらに実験を繰り返す

 美術品としての華麗さではなく、「使える刀」を追求することが古刀の映りの再現につながる。河内がこの発想の転換に至るきっかけがあった。

 大阪の堺で日本刀と同様に本焼きの技法で包丁を作る友人と話したときのことだ。その友人は、日用品である包丁づくりでは1本でも失敗してはいけないと語ったのだという。切れないことも、刃こぼれすることも絶対に許されない。美しい刃文を出すために面白がって作るものでもない。

 この話を聞いて、河内は「ああ、そういうことか」とピンときた。「刀も本来、同じでなくてはいけないのです。そのときに思い付いたことを試したら、それまでとは全然違っていた」と振り返る。この気付きのプロセスは、科学者が発見をするときに似ていると河内は言う。

ノーベル賞を受賞するような人は、多くの実験をする中である時にふっと変化に気付く。絶えず考えていたら逃さない。でも、せっかく見つけているのに、違う方向に逸れていってしまう人もたくさんいるでしょうね」

 寝ても覚めても夢の中でも常に刀のことを考えている。1日24時間のうちに、どれだけそのことを考えているか。「もし1時間でも別のことを考えていたら、23時間しか刀のことを考える時間がなくなる」と河内。実際、映りの再現に至るまでに、科学者さながらに多くの実験を繰り返したという。

中川一政画伯による書の作品「気宇如王」。河内が、深く敬愛する作家の1人だ。「上手に書く」を超えた高みに待つものは何か

 その実験を支えたのは、懇意にしている研ぎ師・柳川清次だった。

 柳川は、河内が実験のために鍛えた刀も研いでくれたのである。夕方に届いた刀を、ほかの仕事の手を止めて夜の間に研ぎ、次の日の便で河内のもとに送り返してくれた。これまでとは異なる鎌倉時代の刀に似た研ぎ味だったのだろう。「これでいい、これでいい」と研ぎ師の目から励ましを受けた。

 作刀では、刀鍛冶と研ぎ師の連携が大切になる。刀鍛冶が形を決め、その美しさを最大限に引き出すのが研ぎ師だからである。柳川との連係プレーで、河内はすぐに次の実験に移れた。

 「庭園でも何でも、人工的なものより自然の方がずっと面白い。芸術品にしようなんて思わず、武器を作ろうとしていればいい」と、河内は言う。

 鎌倉時代の古刀に現れる乱れ映りは、機能美の象徴。美だけが残って、いつしか機能を追求しなくなった結果、その象徴は姿を消した。伝統と真摯に向き合い、数百年の時を経て、日本刀本来の「自然な美」をこの世に再び出現させた。名匠の視線は、さらなる高みを見据えている。=敬称略