さんぽ

環境関連、武術、その他、気になったことをつれづれに。

「日本刀」 第1話 『最も強く、美しい武器』

少し古い記事ですが、とても素晴らしいので、またもや勝手に転載させて頂きます。

−−−−−−−−−−


刀匠、河内國平(かわちくにひら)が製作した太刀。日本刀は茎(なかご)の表に作者名、裏に製作年月日の銘を切る。刃長二尺(約60cm)以上の大型の日本刀には、刃を下にして腰に吊るす太刀と、刃を上にして腰に差す刀がある。(撮影:宮田昌彦)

 日本刀は武器という名の、このうえなく美しい「道具」である。

 かつて使い手は、これを手に敵と戦った。その時代には、日本刀の出来がそのまま自分の生死に関わっていた。いや自分だけではない。自身の肉親や家族、友人、そして仲間たちを守る生命線だったのである。そんな切実な要求と大きな需要は、多くの優秀な作り手を生み出すことになり、実際に名作と呼ばれる数々の日本刀が生み出されていった。その中には、偶然に名品となり得たものもあったかもしれない。それをも経験として取り込み、濃密な試行錯誤を繰り返すうちに日本刀は様式を獲得し、工人たちによって一つのメソッドとしての基本製法が確立される。さらにそれを洗練させる過程で、多くの流派が生まれ、その流れの末に立つ多くの工人たちは、さらなる高みを目指して研鑽を重ねた。


河内國平が製作した短刀。刃長二尺以下の日本刀には、脇差し、短刀がある。短刀は刃長一尺以下と最も小型の刀剣にあたり、女性の護身具、守り刀としても扱われる。(撮影:宮田昌彦)

こうして綿々と作り続けられてきた日本刀は、道具として使われただけではない。所有者の社会的地位によっては、彼らにふさわしい美しい装飾が施された。刀身部分には、熱処理によって刃文(はもん)と呼ばれる模様を表し、それを柄や鞘、鍔(つば)といった刀装具で飾った。それら小物一つ一つにも日本の文化の粋が集められ、流麗な彫刻や象眼などが施されたのである。こうして日本刀は、いつしか武器という道具の範疇を超え、美的存在としての比重を増していく。そして、実際の戦闘に使われる機会がほぼなくなった時代にあっても、日本刀は美術品として、あるいは精神的シンボルとして神聖視され続けられている。その愛好者は世界に広がり、「最も強く、美しい武器」として特筆される存在になっているのである。

 それにふさわしい、数えきれないほどの伝説が存在する。

 ときは鎌倉時代、元寇(げんこう)に際して日本刀の威力を見せ付けられた大陸諸国の人々は、戦後に日本刀を大量に買い占めたという記録が残っている。その史実にまつわる逸話として語られるのは、「馬の首を一太刀で切り落とした」「青龍刀や束にしたサーベルを見事に両断した」といった伝説である。


「獅子造兵庫鎖太刀」。河内國平刀匠、平成3年製作。上野修路拵(こしらえ)。日本刀はその保護と装飾のために、柄や鞘、鍔と言った拵が作られる。贅を凝らされた拵は、日本の工芸文化のひとつの極みと言える壮麗さを持つ。(撮影:宮田昌彦)

 ごく近世の話もある。第一次世界大戦のとき、日本刀の優秀さを知ったドイツがひそかにその成分を分析、得られた結果を基にモリブデン鋼を開発し大砲などに応用したという。そんな史実に添えて語られるのは「100人斬ってもなお使えた」などというもっともらしいエピソードである。そんな伝説の中には、とても信じがたいものが多く含まれる。けれども逆に考えれば、そう表現したくなるほど、日本刀の性能を目の当たりにした驚きは大きかったということなのかもしれない。


現代の刀匠、河内國平の鍛冶仕事。大鎚で強く叩かれた玉鋼から鉄華が四方に飛び散る。

 海外にも、「岩に突き刺さるエクスカリバー」「鋭利で錆びないダマスカス鋼の剣」といった、刀剣にまつわる伝説はある。しかし、それらと日本刀伝説が一線を画すのは、日本刀は歴史の1ページに封じ込められた過去の神秘的遺産ではなく、現に今でもおびただしい点数が存在し、当時と変わらぬ製法によって作り続けられているということだろう。

 だからこそ現代でも、テレビ番組で並みいる他国の武器を抑えて「世界最強の武器」として紹介され、「斬鉄剣」よろしくピストルやマシンガンの弾を斬る実験映像が流されたりする。刀匠は国内ばかりか世界各国に招かれ、製作を実演したりもしている。そんな世界的知名度ゆえに、刀匠に憧れを持ち、作刀を志す外国人も多い。実際に厳しい修業に耐え抜き、帰国し刀匠として活動している外国人が海外メディアで紹介されたりもしている。こうした点からいえば、武器という分類のなかにあって日本刀は、別格の存在感をもって人々を魅了し続ける稀有な道具といえるだろう。


刀匠は、炎の大きさや、炭の中で赤められた玉鋼の赤み具合を見て、こまめに送風の強さや玉鋼を置く位置を微調整していく。

 もちろん、それを支えているのは、伝説になるほどの日本刀の優秀さであろう。「折れず曲がらず良く切れる」という刃物として理想的な条件を備えているのである。一般に、鉄を硬くすれば切れ味は増し曲がりにくくもなるが、それだけ折れやすくなるものだ。つまり、「折れず曲がらずよく切れる」というのは、本来あり得ないことなのである。

 その、相反する要素を並立させるための工夫が、日本刀にはぎっしり詰め込まれている。その代表的なものが、あの独特な姿、折り返し鍛錬で鍛えた複数地鉄(じがね)を組み合わせ、さらに鍛え上げる複合鍛え、焼き入れによる刃文などである。


 まずは、日本刀特有のその姿。特徴的なのは、反りと鎬造(しのぎづくり)だろう。刃を外周として弧状に反らし、さらに強度を損なわないように注意深く肉をそぎ落とした日本刀は、軽く、振り回しやすい。断面形状も独特で、刀身の背側にあたる棟に沿って小高い線の鎬を通している。こうすることで断面は複雑な六角形となり、強度が増すのである。

 そんな日本刀の素材である玉鋼(たまはがね)は、良質の砂鉄を木炭で低温還元する日本古来のたたら製鉄法を使い作られた鋼だ。炭素以外の不純物、中でも脆さなどの要因となる硫黄やリンをほとんど含まない、極めて純度の高い鋼である。この玉鋼に古い鉄などを混ぜて鍛えて地鉄とする、さらに刃の部分は炭素含量が多く硬いものを、内側の芯には炭素含量が少なく軟らかいものをというように、硬度の異なる地鉄を組み合わせる。こうすることで、信じがたい強靭さが生み出されるのだ。


内部まで赤められた玉鋼の塊。表面には藁灰がまぶされている。

 刃文は刀身に描かれる模様である。刃の部分が強く焼入れされた状態となっており、焼きの入りの弱い地の部分との境界部分が刃文として現れる。焼入れの際は、刀身を加熱して赤めた後、水に入れて急冷する。こうすることで鋼の組織が安定なオーステナイト(面心立方格子)からマルテンサイト(体心正方格子)に変わる(マルテンサイト変態)。こうしてできたマルテンサイトは、極めて硬く、よく切れる。しかし、脆い。だから、必要不可欠な刃の部分にのみ強く焼きを入れ、さらに焼戻しをかけて靭性を出す。これも「よく切れる」のに「折れず曲がらず」という特性をもたらす一つの要因である。

 日本刀独特の反りも、この焼入れをルーツとして生まれたものだといわれている。鋼は、マルテンサイト変態に伴い体積を増す。このため、刃の側が伸び、全体として反りが生まれる。さらにこの反りが生じる過程で、刃の部分には強い圧縮応力が蓄えられることになる。この内部応力が切る際に刀身に加わる力を相殺し、折れを防ぐ。


薄暗い鍛冶場で、玉鋼が強烈な光を放つ。

 こうした要素を一つずつ抜き出してみれば、他国の刃物や刀剣類にも類似のものを発見することができる。けれど、これだけ理に適った要素がことごとく詰め込まれたものは、まず見当たらない。例えば、中国には青龍刀というものがあり、反りがある。けれど、単一材料で作ったもので、鎬造のような凝った構造にはなっていない。インドでかつて作られていたといわれる幻の素材、ダマスカス鋼を使った刀剣類も多く残っており、その地鉄には折返し鍛錬によって鍛えられた日本刀の鋼にも似た地紋が現れている。しかし、日本刀に施されているような繊細な刃文はない。西洋の伝統的な刀に至っては、そのほとんどが両刃の剣形で、一般的には鉄鉱石を溶解して作られた鋼を単独で使ったものである。力強さや装飾の豪華さはあっても、日本刀のような鋭い切れ味や強靭さは望むべくもない。


弟子たちの振るう大鎚が、親方の指示によって的確に玉鋼を鍛っていく。

 そんな日本刀が、存亡の危機に立たされたことがあった。第二次世界大戦後、連合軍によって日本は武装解除を申し渡され、その際に日本刀も没収の対象となったのである。それを受け、有志たちが立ち上がった。彼らの働きかけで、審査によって「正しく伝統的な製法で作られた日本刀である」ことが証明されれば、登録などの手続きを経て日本刀を所有することが可能になったのである。作刀も、許可制ながら昭和28年には解禁になった。

 それは、日本刀が単なる武器ではないことの証明でもある。たとえば現在、国宝に指定されている刀剣類は約110点にのぼる。これは全国宝1076点の約10%に当たり、工芸品252点の約40%を占める計算になる。武器ではなく文化財として、それだけの重みを占めているのである。現代に限ったことではない。日本刀はずっと昔から、道具でありながら美術品でもあり、さらにいえば神器でもあったのだ。


横座に座る親方は、玉鋼からひとときも目を離さずに仕事を続ける。

 世に「三種の神器」と呼ばれるものがある。本来は天孫降臨の際に天照大神から授けられ、歴代天皇が継承してきたとされる三つの宝物を指すが、その中に天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)がある。このほかにも、たとえばご神体として崇拝の対象となっている刀剣類は数知れない。このあまりに鋭利な刀に神が宿れば、必ずや邪なるものを両断し滅ぼしてくれると古人は考え、奉ったのだろう。

 こうして日本刀は生き続けてきた。今でも国内に300万振ほどは現存するとの推計がある。これらの大多数は審査済みだから、簡単な手続きさえすれば普通に所有もできる。


複数の硬さの異なる地鉄を組み合わせる「複合鍛え」が、日本刀の強靭さを生み出す。

 けれどもそれらは、その気になって使えば相当に強力な武器にもなるものだ。ところが膨大にあり、かつ入手も容易であるにもかかわらず、それらが実際に犯罪で使われる例は極めて少ない。それが日本刀の力ということなのか。ある刀匠はこう語ったという。名刀とは「それを見ただけで争いの愚かさを悟らせ、お互いに刀をおさめようという気持ちにさせるもの」なのだと。名刀にあらずとも、正統な製法で作り出された日本刀は、強さや美しさ、そしてその先に、ある種の畏れを感じさせるものであるらしい。


手鎚のみで、刀の形状を打ち出していく。

 それもあってのことなのだろう。代々の将軍など時の権力者は、名刀を武将たちに恩賞として与えることを常としてきた。もちろん、武器としてではなく、得がたき美術品、崇めるべき存在として。そのような風潮のなかから、その価値を見極める刀剣鑑定の「目利き」、さらには刀剣の魅力に取りつかれた多くの収集家が登場してくる。前者の代表が稀代の芸術家としても知られる本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)であり、後者としては上杉景勝などがいる。景勝は自らのコレクションの中から「御手撰三十五腰」と呼ばれる35振の名刀を選び出して一人悦に入るほどの「日本刀オタク」だったらしい。そういえば大河ドラマ天地人』の中でも景勝が日本刀の手入れをしているシーンがたびたび登場する。

 こうして、機能と美の双方を備えた日本刀は、振り子のようにいずれかに重みを傾けながら、今日まで生き延びてきた。しかしながら現代に至り、日本刀は武器としての価値を完全に失ってしまった。美術品、あるいは信仰の対象としてしか認められないという、長い歴史の中でも極めて特殊な状態で作り続けられているのである。


表面を磨くセンという道具は、刀匠が自作する。

 しかも、その担い手になるには多くの困難がある。今でも一般に350人から400人の刀匠がいるとされるが、その一員となるためには、すでに作刀許可を持つ刀匠のもとで4年以上修業をした上で都道府県の教育委員会の推薦を取り付け、毎年1回、9月に行なわれる文化庁主催の「美術刀剣刀匠技術保存研修会」を受講し修了しなければならない。研修会とは言うものの、実際は受講者の作刀技術を見極める実地試験のようなものである。そこで、講師たちに技術が未熟と判断されると途中でも受講停止を言い渡され、翌年再受講しなければならない。無事受講を修了し、作刀許可を持つと晴れて刀匠となる。

 その先がまた厳しい。刀剣の需要の少ない現代において、作刀のみで暮らして行ける刀匠はほんの一握りにすぎないからだ。実際、修業を経て資格を得ながらも、ほとんど作刀は行なっていない刀匠がかなりの数にのぼるという。


 さまざまな面から見て逆風の状況にもかかわらず、ふるいにふるわれた少数精鋭の刀匠たちは、文化庁の規定に従い、二尺以上の刀、太刀などは月に二振り、二尺以下の脇差し、短刀などは月に三振りまで、という原則の範囲で作刀を続けている。伝統工芸の世界において、作り手の高齢化、後継者不足は顕在化しているが、刀剣界では、他に比べればまだ若い作り手の割合も多いようだ。日本刀には、伝統文化などあまり学んだこともない若い人さえも惹き付ける、普遍的な魅力が備わっているのだろうか。

 そう想像したくなるほど、日本人と日本刀の関係は長い。その原型が現れたのは何と900年近くも前の、平安末期なのである。


刀身に自ら配合した焼刃土(やきばつち)を塗っていき、複雑な模様を描く刃文を作る。
 それ以前の古代刀剣は、正倉院にも納められているような直刀が中心で、刃の断面は切刃造(きりはづくり)、平造(ひらづくり)と呼ばれるV字型になっていている。上下に刃がついている剣をちょうど真ん中から二つに切ったような形状だ。そこに反りや鎬をつけ、さらに複合鍛えの構造を導入するといった改良が平安末期に加えられ、日本刀の原型ができた。

 こうした古い時期に作られた刀のほとんどは太刀(たち)である。刃の長さが二尺(約60cm)以上の長刀で、刃を下にして腰に吊るす。馬上で佩(は)き、戦闘を行なうのに適した形状になっているのである。これに対して刀は、一般に太刀よりやや短く、時代劇に登場する剣客のように刃を上にして腰に差して使う。


続く鎌倉期は、武家社会の成立によって日本刀の需要が急速に高まった時代である。この後期には、作り手が意図的に刃文に変化をつける「乱れ刃」が多く見られるようになる。この時代に、日本刀は一つの頂点を極め、後世に名を残す名工たちを数多く輩出した。

 有名な正宗(まさむね)もそうである。彼は相州伝(そうしゅうでん)と呼ばれる代表的作刀技法をこの時代に確立させた。同じく代表的技法として備前伝(びぜんでん)と呼ぶものがあるが、こちらの流派では一文字(いちもんじ)や長船(おさふね)の一派が活躍した。このほか、併せて五箇伝(ごかでん)と呼ばれる山城伝(やましろでん)、大和伝(やまとでん)、美濃伝などにおいても多くの名工が登場し、現代刀匠が目標とする存在として、今日でも高い評価を保ち続けている。


 鎌倉時代に続く南北朝時代を経て応仁の乱が勃発した室町時代になると、太刀より短い打刀(うちがたな)が流行するようになる。これが、今日一般に刀と呼ばれるもので、馬上での戦闘より歩兵戦に適したものになっている。この後の戦国時代になると、刀の需要は急拡大し、束刀(たばがたな)と呼ばれる大量生産品も登場する。

 「妖刀村正」で名高い村正(むらまさ)は、この時代の名工である。彼の作った刀によって家康の祖父である清康、父の広忠は殺害され、そして家康自身も村正で怪我をした。さらには息子信康が切腹の際に使った介錯刀も村正であった。そのことから、村正は「徳川家にたたる妖刀」とされ、家康に敵対した真田幸村などは、あえて村正を腰に戦場に向かったという。このような伝説が、歌舞伎や講談などの題材にもなり、もともと高かった村正の知名度はさらに上がっていった。


 この後の安土桃山時代から江戸初期にかけては、戦雲の濃さに比例して豪壮なものがもてはやされた。しかし1600年に関ヶ原の戦いが終結し、世は泰平へと向かっていく。およそこの時期を境に、刀に対するニーズや製鉄方法に大きな変化が起き、日本刀は一つの節目を迎える。それをもって、この時期以前の日本刀を「古刀(ことう)」、以降を「新刀(しんとう)」と呼ぶのが通例になった。

 日本刀を武器として使う機会がめっきり減った江戸中期には、近藤勇がその贋物を愛刀としていたという長曽祢虎徹(ながそねこてつ)などの名工が、華麗な刃文を持つ精緻な日本刀を作り出した。商人でも届け出を出せば携帯を許された脇差に贅をこらす風潮があらわれるのもこの時代である。さらに時代が下がると、富士山や菊の花をかたどった刃文まで登場し、日本刀はますます華美さを増していく。


1週間ほどかけて、研ぎをかけ形を決める。

 それを一転させたのが幕末の戦乱である。世情が不安定になるにつれ刀剣の復古主義を唱える声が高まっていったのだ。その提言者である刀匠の水心子正秀(すいしんしまさひで)などが鎌倉時代にならった豪壮な刀を世に問い、幕末の志士に大いに支持を得た。

 これらは「新々刀(しんしんとう)」と呼ばれ、近藤勇の偽虎徹の本当の作者とされる清麿(きよまろ)などがその時期の名工として名を残す。ちなみに勝海舟は前出の水心子正秀を愛刀としていたそうだ。


銘を入れて、刀匠の仕事が終了する。

 そして、明治維新を迎える。ここにきて身分制度は改まり、武士階級がなくなってしまう。さらに明治9年には廃刀令(はいとうれい)が公布され、特別の場合を除いて刀を身につけることができなくなってしまった。この結果、多くの刀匠が職を失い、道具鍛冶などに転身していった。

 それでも、作刀技術は国によって保護され、その技はかろうじて次の世代に引き継がれていく。その技でもって作られた日本刀は、その後の戦争で補助的な、あるいはシンボル的な武器として役目を果たす。そのために第二次世界大戦中には、刀匠たちが徴用され軍刀を大量に生産した。そしてこれが、武器として日本刀が使われた最後の機会となったのである。(文中敬称略)