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あなたはプロフェッショナルか、単能工か 大企業の管理職が誤解しがちな「専門性」の意味

ダイヤモンド・オンライン2013年12月24日(火)
■なぜ欧米の優秀な技術者は「スペシャリスト」と呼ばれるのを嫌うのか

 欧米では、たとえば優秀な技術者に、「あなたはスペシャリストなのですね」と言うと、嫌な顔をすることが多い。「では、エキスパートと呼べばいいですか?」と言い直しても、あまりいい顔はしない。「そうか、プロフェッショナルか」と言って、初めて笑って、「イエス」と答えてくれる。

 彼らのイメージでは、スペシャリストとは単能工を意味する。ある1つの技術なり、工程の専門家だ。エキスパートは、熟練したスペシャリスト、文字どおり、熟練工を意味する。それらは欧米の技術者の中ではあまり偉いとはされない。偉いのはあくまでもプロフェッショナルだ。

 では、プロフェッショナルというのはどういう存在か。

 1人で相応の価値を上げることができる人である。価値を上げるということはビジネスができるということにも通じる。技術という範囲で言うのであれば、たとえば「釘が打てる」ではプロとは言えない。「家が作れる」となって初めてプロと言える。

 では、1人で家が作れなければプロではないのか。長い時間を掛けて1人でログハウスを作ればプロなのか。もちろん違う。それではビジネスにならない。つまりは、ある一定以上の幅のある技術を習得しているとともに、営業力やマネジメント能力があって、さらにチームビルディングができて初めてプロフェッショナルと呼ばれる。

 ドイツのマイスター制度においても、強調されるのは技術ではなく、マネジメント能力だ。「頑固一徹で、人の話に耳を貸さない。商売下手」。そうした技術者では、押しも押されもしない親方にはなれない。

 マネジメント能力は幅広い。経理やマーケティング力、そして営業力は絶対ないとマイスターにはなれない。さらに、一度マイスターになれても、1年に一度、必ず研修を受けなくてはならない。そこで教えているのはリーダーシップとチームビルディングだ。

 ちなみに技術は教えない。技術の更新は当たり前で、それは自分でやるのが筋だからだ。

 もっとも、実際には、たとえば経理ができないプロもいる。その場合は経理のできる人間を雇えばいい。つまりは手に職を持ちながら、チームを率いてビジネスを通じて価値を提供できる人間がプロフェッショナルなのだ。

 単能工ではプロとは言えない。経理ができるだけならばスペシャリストに過ぎない。熟練工でもプロとは言えない。日本ではスペシャリストを大事にするが、それではプロが育たない。

 第2回でメイテックという会社の話をした。同社は特定技術者派遣の会社で正社員として技術者を登用して、クライアント企業に派遣する。そうした技術者の中に、相場平均の倍以上の高給を取る人たちがいる。どういう人たちだろうか。余人をもって代えがたいほど特殊な技術を持っている、あるいは熟練の技を持っている人たちがそうなのではない。

 もちろん、優秀な技術者であるには違いないのだが、それ以上に人間力に優れていると説明される。

 ここで使われる人間力も、言ってみればマネジメント力だ。現在では多くの企業の開発現場でも空洞化が起こっている。新人が入ってきても、彼らを指導する役割を担う人がいない。熟練工も姿を消している。そこでその高給を取る派遣技術者たちが、人材育成とチームビルディングを担う。クライアント企業は、そんな彼らのことを手放したくはない。だから当然、高給になる。

 1つの技術に特化したスペシャリストは、その技術が重要で希少なうちは重宝がられて高給も取れるだろうが、時代が移り変わり、代替技術が出て技術が陳腐化してしまえば、その人の持つ価値は激減してしまう。そういう専門家は決してプロではないということだ。

 金融機関を中心に、1999年以降、日本の企業は一所懸命にスペシャリストを養成してきた。これは、「欧米の金融マンはインベストバンク一筋に30年実績を積んでいるのに、日本は支店から本店とぐるぐる回してジェネラリストを育てている。これではとても勝てない。専門家を育成しなくては!」という掛け声で始まった人材育成の転換だった。だが、実際は逆に、非常に狭い範囲のスペシャリスト育成をしてしまったので、違う意味で勝てなくなってしまった。プロフェッショナルの意味を勘違いし、育成方針を間違えたのだ。日本の場合、スペシャリストにはそんなものはいらないと、リーダーシップもマネジメントも教えなかった。

■多くの人が間違う「専門性」の解釈 「ノー」というのがプロの仕事ではない

 専門性だけではプロにはなれない、ということがわかってもらえたであろうか。さらに、この“専門性”の解釈もやっかいだ。専門性は、ポータビリティがなければ市場価値があるとは言えない。

 とかく、多くの人は自分の専門性を非常に狭く定義するもののようだ。たとえば、転職を希望する経理マンがいる。「私の専門は経理です」と言う。そこで「どうでしょう。地方公共団体の経理の民営化を担ってみませんか?」と水を向けたとする。やり甲斐のある仕事だと思う。

 しかし、ほとんどの人は多分、こう言う。「いやいや、それは無理です。地方公共団体など勤めたこともありませんし、無理です」。「そんなことはないでしょう」と言っても、「とんでもない。私は、家電メーカーの工場の経理の専門家なのです」などと言い出す。それではいかにも狭すぎる。

 だが、中には自分の専門性を汎用性のあるものと解している人もいる。テレビ局の人間の例だが出向を繰り返して、職場もいろいろと変わった。制作、報道、編成、営業、総務、そして人事……職種も変わっているわけだが、本人としては何も変わっていないと言う。

「やっていることはいつも同じ。人と会って話をしているだけです」

つまりはそれが彼の専門性であり、強みなのだ。どんな職場、どんな職種でも、彼は成果を上げてきた。「一人ひとりと向き合う力は誰にも負けない」と言う。これはポータブルスキルだ。彼はプロフェッショナルだ。なぜならば、人と向き合うことで人材育成もチームビルディングもできるし、彼なりの方法でリーダーシップも発揮できているからだ。

 会社から期待されている役割や、自分で見出した役割に存在意義を見出し、専門性としている人も少なくない。そのこと自体はもちろん悪いことではない。ただ、その専門性で評価を受けたり、成果が出ることで、そのことに固執してしまうと、やっかいだ。成功体験への固執。組織で言うところのイノベーターズ・ジレンマである。

 しかも、それが会社からの役割期待であれば、まだいいのだが、自ら設定した義務的役割期待の場合は、組織にとっては迷惑ということもあり得る。前回、「自ら会社に愛され方を提案しろ」と言ったが、会社が認めない義務的役割期待では意味がない。それでも会社を成長させる原動力になれればいいが、逆にブレーキを踏んでしまうということも少なくない。

 義務的役割期待とは、私の立場であれば、こういう役割を期待されているはずだから、こういう発言をすべきだ、といった具合に自らの言動を規定してしまうことも意味する。

 たとえばある大企業の経理部長であるが、新規事業に対する投資の話し合いをしていた際に、「個人的にはこのビジネスはすごくいいと思います。でも、経理部長としては、そう簡単には首を縦には振れません」と言い出したのだ。「なんだそれは」と思った。

「でも、あなたが逡巡しているおかげで、先に進まないのですよ。決定が遅れれば遅れるほど、このビジネスは失敗する確率が高まるのですよ」と説得しても、「いや、そうは言っても、ブレーキ役がいないと、企業は危険でしょう?」と言う。「そうですね。でもね、ブレーキを目いっぱい踏んでいると、いくらアクセルを踏んでも、動けないのですよ」「そうであっても、仕方がないですね。それが私の役割ですから」

 結局、その投資の話は流れてしまった。彼の専門性に対する間違った役割期待に彼が固執してしまって、そこから抜け出さなかったからだ。

 技術者もそうだが、話し合いにノーから入る専門家は多いものだ。「できる、できる」と言うよりも、「それは無理だ」と言うほうが専門家らしいとでも思っているのかと感じることが少なくない。ノーと言うことに、自分の存在意義を見出しているのだ。

 プロだから、主張しなければいけない。他の人には見えない観点から危険性を指摘するのが自分の役割だと勘違いをしている。

 これもまた大企業病の一つだ。組織を失敗に導かないように、活性化させないというのは困った話だ。

 粗探しなど、もちろんプロの仕事ではないし、スペシャリストの仕事ですらない。もちろん、リスク管理は重要だが、その上で、いかに積極的に動くか。戦略的視点を持たなければ、プロフェッショナルとは言えない。前回、紹介したように、今は動的均衡の時代だ。だからこそ、動くことがますます重要なのだ。

■“自分の城”を守るだけの課長はこれからは打ち首になる!

 動的均衡の時代に足かせになる日本の大企業の部課長のマインドセットを、もう一つ紹介したい。

 多分、その罠に多くの人が陥っているはず。その罠とは皆、自分が任された組織を“自分のお城”と考えてしまうということだ。そのお城が大切だから、全体最適よりも、部分最適を優先してしまう。その結果何が起こるかというと、小課長、中課長、大課長と皆がそれぞれのお城を作って守りに入ってしまうのである。

 一般的な企業の中で重要な事業最小単位は課ではなく、部だ。だから次長や課長は、その一部を担っているのではなく、部全体を(部長を中心に)マネジメントするマネジメントチームの一員である。部下のマネジメントや管理面では一つの課という単位を預かっているが、そのことよりもむしろ、部全体をどうするかという観点で部長に協力しなければいけない。

 戦国時代などの軍議を想像してほしい。それぞれ城持ちの重鎮が集まって軍議に参加する。たとえば織田信長の軍議であれば、柴田勝家羽柴秀吉前田利家などが顔を連ねた。そんな時に、自分の城を守るような発言をしたら、下手をすれば打ち首だ。たとえ自軍は犠牲になっても、織田軍全体を勝利させるための戦略を口にしなければいけない。

 マネジメントのプロも同じだ。部全体の最適解を見つけるために知恵を絞るのが、この場合のプロフェッショナルであって、そのための戦略を考え、発言し、実行しなければいけない。自分の城を守るのがプロではないし、ましてや管理するだけでマネジメントのプロだと思ったら大間違いだ。

 自分がどれだけ間違った概念に凝り固まっているか。専門性やプロフェッショナリズムについても誤解をしているのではないか。つまりは、自分たちが多くの場合、間違った常識、あるいは、そこでだけ通用する常識という枠にはまってしまってはいないか、その点を真剣に考え、そして、もしはまっているのであれば、はまっているということをまずしっかりと認識してほしい。

 これまではそれでよかったかもしれないが、動的均衡の時代にあっては、その状態に留まることは非常に危険だ。フリーライダーまっしぐらか、すでにその深みにはまっているかもしれない。