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「国境なき医師団」の厳しい現実 東洋経済オンライン 2013/2/7

 2011年の民主化運動を機に内戦状態が続くシリア。すでに戦闘を避けて200万人以上が避難したといわれるが、今も周辺国への避難を望むシリア人の数は増加の一途だ。人道的援助活動はまったく追いついていない。

 国境なき医師団(MSF)はシリア政府の「認可」を得られないまま援助活動をしていたが、11年3月に治安悪化で活動をいったん中止したという経緯がある。しかし12年6月にシリア北部の空き家を仮設病院として立ち上げ再スタートした。

 現在、シリア北部のトルコ国境近くで3カ所の病院を運営している。12年6月以来、1万件以上の治療、900件以上の外科手術を行っている。麻酔科医として05年からMSFの活動に参加、すでに8回の派遣歴を持つ初雁(はつかり)育介さんは昨年8月末から2週間ほど、このシリアに派遣され、14〜15床の小さな病院で診療に従事した。

 「運ばれてくる患者はさまざま。市民か軍人か、政府軍か反政府軍かは関係ない。私の出番は麻酔を使った手術を必要とする重傷患者のときだ。多いときは1日十数人が運ばれてくる。しかも爆撃や戦闘が起こるのは、主に夜。夕方から翌朝までが特に忙しい」(初雁さん)

 初雁さんを含む外国人スタッフは医師、看護師、ロジスティシャン(物資の手配や搬送など、活動を補助する職員)など含め、入れ替わりはあるが常時8〜10人程度。後は現地スタッフだ。コミュニケーションは英語、あるいは通訳を交えての会話だ。
 運ばれてくる患者のほとんどは爆撃や戦闘によるケガ人だが、その中には「体の一部が吹き飛んだ人、弾丸数発が腸や肺を貫通して穴が開いた人などがいる。その穴が開いた大腸を、取り出して一つひとつ穴を縫い合わせるという手術も行った」(同)という。

 身の危険は感じないのか。基本的にはシリア国内の戦闘の激しい地域では医療活動をしない。だが、戦闘地域内ある現地の病院に医薬品を届けるスタッフには命の保証はない。街なかの病院が爆撃対象になったり、焼き討ちに遭うこともあったという。「医療活動していた仮設病院の近くでも、朝方、銃を乱射する音が聞こえるときがある。そんな時は体を伏せて身を守った」(同)。

 爆撃、戦闘から逃れようとするシリア人が集まる国境付近は、難民キャンプとなり、そこは衛生状態が悪く、コレラなどの感染症も発生している。また、難民キャンプにサソリが出て大騒ぎになったこともあるという。

 文化や宗教の違いも、時に診療を難しくする。「ムスリムは、男と女は完全に部屋を分ける。また、女性は人前では肌を出さないだけでなく、男性には体を触らせない。だから、女性専門の女性スタッフチームが必要になる」(同)。

 外国人スタッフだけでは限界はある。しかし、まだまだ現地スタッフの医療知識レベルは低い。文化や感覚の違いもあるが、どうやってスタッフ教育をしていくか、援助活動を続けていくうえでの課題は山積している。

■ 紛争とHIVと睡眠病… 高い幼児死亡率の最貧国

 アフリカ大陸の中央部に位置する中央アフリカ共和国。1960年フランスから独立した後も政情不安が続いている。ダイヤモンドや金、ウランの産出国だが、経済発展には結び付いていない。国際社会からの支援金や支援物資は、どこかで消えてしまう。政府は存在するが、国民にはその支援は届かない。

 国民の9割が1日2ドル以下で暮らす世界最貧国の一つ。山間部の村には、電気もガスも水道もない。だが、携帯電話は普及している。ソーラーパネルを利用した「充電屋」だけは儲かっているようだ。

 落合厚彦さんは、物資調達、施設・機材・車両管理など幅広い業務を担当するフィールド・ロジスティシャンとして昨年6月から約半年間、中央アフリカに派遣されていた。日本では20年ほどラジオ番組の制作をしていたが、08年からMSFの活動に参加、マラウィ、ナイジェリア、ジンバブエスーダンなど、アフリカを中心に8回の派遣歴を持つ。

 落合さんが中央アフリカで活動していた病院はカーノという町の基幹病院でベッド数は100ほど。一番のミッションは高い乳幼児死亡率への対策で、MSFは診療だけでなく、病院を現地の人だけで運営できるようにサポート体制の確立も目指す。またHIVやアフリカ大陸に多い睡眠病のケアも大切な仕事だ。

 落合さんの仕事は幅広い。物資調達といっても、現地ではなかなか手に入らないものが多い。本部へ連絡して空輸してもらえば簡単だが、それではコストがかかりすぎる。時には必要物資を調達するため、遠くまで出掛けたり、その物資があったとしてもすぐには購入せず複数購入先が見つかれば必ず相見積もりを取って、安いほうを買う。

■ 車両管理から飛行機の手配、水の確保まで行う

 「MSFにはマニュアルがあって、効率的に業務を行うだけでなく、何にどれだけおカネを使ったかを説明する責任がある。寄付金は大切に使わなければならない。その透明性も求められている」(落合さん)

 また、車両管理といっても、車の台数だけでなく、ドライバーの確保、さらには倉庫係や無線係といった現地スタッフの確保も仕事の一つだ。時には、レントゲン設備のある大きな病院へ患者を移送したり、飛行機の手配をしたりしなければならないこともある。中でも安全な水の確保は、医療活動をするうえでも重要だ。フランスの物流センターからは5000リットルのタンクやホースのセットが送られてくる。水を入れ、浄化して使う。

 困ったのは言葉だった。英語以外にフランス語も勉強していたので、ある程度の会話はできるが、現地のフランス語はフランス人にもわからないときがある。現地スタッフとのコミュニケーションには苦労した。病院では電気を私用に使う現地スタッフが多くて困ったという。「自家発電しているが、現地スタッフはコンセントが空いていると、すぐに自分の携帯電話の充電に使う。やめろ、ともなかなか言えない」(同)。多くの乳幼児が亡くなっている現実の一方で、その施設内では貴重な電気がこんなことに使われているのだ。

 中央アフリカの内戦はいまだに続いている。政府はこうした医療体制の整備について何もしない。政府関係者の間では汚職が横行している。

■ 大地震から2年半 不衛生で劣悪な環境

 カリブ海に浮かぶ島国、ハイチ。10年にマグニチュード7・0の大地震が発生し、首都ポルトープランスを中心に甚大な被害を受けた。追い打ちをかけたのが、コレラの大流行だった。MSFはすぐに現地入りし、全国50カ所の施設で活動。およそ17万人のコレラ患者を治療してきた。しかし、13年になっても、いまだコレラは収束する兆しがなく、MSFの支援は続いている。

 看護師の京寛(きょうかん)美智子さんは、05年からMSFに参加、これまでシエラレオネ、ナイジェリア、南スーダンなどアフリカを中心に8回の派遣歴を持つ。総派遣期間は45カ月に上る。

 京寛さんがハイチに派遣されたのは、10年11月末から翌年2月までの約3カ月間。京寛さんがいた医療施設は、各20ベッドほど入る大きなテントが九つあり、外国人スタッフは医師が3〜4人、看護師6〜7人、ロジスティシャン5〜6人と多く、現地スタッフも約100人ほどいる大きな施設だ。妊婦やHIV患者などもいたが、ほとんどはコレラ患者だ。MSFの施設はコレラ専門施設が多かった。

 京寛さんは「地震の後も復旧というには程遠い。きれいな水の確保が難しく、街なかであっても排泄物などを垂れ流しているというのが現状。自分たちの分も含め、とにかく水の確保が重要だった」と振り返る。

 最初の1カ月間、夜は外国人スタッフ数名と同じテントでごろ寝していた。水も自分たちで塩素消毒などして使い、衛生状態は劣悪だった。幸いにも外国人スタッフからはコレラに感染した人は出なかった。勤務時間は朝6時から夕方6時までだが、夜間の救急患者などは現地スタッフには任せられないので、「まさに24時間体制だった」(京寛さん)。

 京寛さんが怒りに震えたことがあった。それは、ハイチの大統領選(10年11月)のときだ。コレラが大流行している最中に、選挙が行われ、それに伴い一時は内乱状態になり、道路が遮断されたり交通障害も起こった。市民も医者も病院に行きたくても行けない事態となったからだ。

 もともと水道などインフラは整備されていなかった。2年以上もコレラの流行が収束しなかったのは、大地震だけのせいではないのだ。

 この3カ国は、MSFが援助活動を行っているアフリカ、中南米、中東など約60カ国のほんの一部にすぎない。

■ 個人の寄付が援助活動を支える

 国境なき医師団憲章には「苦境にある人びと、天災、人災、武力紛争の被災者に対し差別することなく援助を提供する」と書かれている。その活動資金は個人が支える。残念なことに、この地球上にはMSFの援助を必要とする国や人々はまだまだたくさんいる。